デザインには希望があると僕は信じている。
デザインは驚きと喜びを人々に届ける仕事である。
三宅一生
デザインには希望があると僕は信じている。
デザインは驚きと喜びを人々に届ける仕事である。
三宅一生
既成の枠にとらわれない自由な発想を、粘り強いリサーチと実験を経て実現すること。それが三宅一生の一貫したものづくりの姿勢です。時代や社会の動きに着目し、個々のプロジェクトに取り組みながらスタッフを育てた三宅は、未来へと続くデザインを追求しました。
広島に生まれた三宅は、市内中心部に架けられたイサム・ノグチによる二つの橋「生きる」「死ぬ」(1952年作/のちに「つくる」「ゆく」に改名)との出会いでデザインを初めて意識しました。この橋を眺め、渡ることで、デザインには人を励ます力があることを学びます。
1960年、世界のデザイン界との交流を目的とした国際デザイン会議「世界デザイン会議」が日本で初めて開催されます。当時、多摩美術大学図案科に在学していた三宅は、なぜ議題に衣服の分野が含まれないのかとの質問状を事務局へ送ります。衣服をファッションではなくデザインとして捉える視点に注目が集まりました。その後、自ら衣服のデザインを始め、アートディレクターの村越襄に声を掛けられて東洋レーヨン株式会社(現・東レ株式会社)の1963年版カレンダー用に衣装を制作します。これが最初の仕事となり、大学卒業後の63年には第一回コレクション「布と石の詩」を発表します。
そして65年にはパリへ渡り、二つのメゾンでアシスタントを務めました。その最中である1968年、パリで起こった五月革命に遭遇したことをきっかけに、限られた人ばかりでなく、より多くの人々のための服づくりを決意します。この考えは現在まで三宅のものづくりに貫かれる考えです。翌年にはニューヨークに渡って既製服の経験を積み、さらに大阪万国博覧会の開催を目前に控え多分野で盛り上がっていた日本に可能性を見出し帰国します。
1970年、三宅デザイン事務所を設立するとともに、「東レ・ニット・エキジビション」ではいくつものパーツで構成された分解可能なユニットの衣服を発表しました。71年にはニューヨーク・コレクションに参加します。そこで出会ったディディエ・グランバック、アンドレ・プットマンとの縁から、73年よりパリでコレクションの発表を始めます。
当初から、三宅の衣服づくりに貫かれる思想が「一枚の布」です。それは洋の東西を問わず、身体とそれを覆う布、そのあいだに生まれるゆとりや間(ま)の関係を、根源から追求するものです。その研究は一本の糸を見つめることに始まり、独自の素材開発に拡がり、新たな衣服へと発展します。
1970年代から新旧の技術を研究、実験し、そこに新たな可能性や表現を見いだしました。テキスタイル・デザイナー皆川魔鬼子の参加をはじめ、開発にさまざまなスタッフが参加することで、視点やアイデアは広がりを見せていきます。最新の合成繊維技術に改良や工夫を加え、次々と新たな提案を行う一方、失われつつあった伝統的な染織やものづくりの産地を訪ね、それら昔からの技法を時代に即した表現へと発展させていきます。初期には、刺し子、脚絆ゲートルなど、優れた機能を持ちながらも過去のものと化していた技を現代の衣服に取り込み、その大胆な視点は国内外で高く評価されました。
こうして現在に至るまで、技術のみならず、時に日常の営みからも着想を得て、「一枚の布」は豊かな展開を続けています。78年には、存命中の衣服デザイナーとしては世界初の作品集『三宅一生の発想と展開;ISSEY MIYAKE East Meets West』(平凡社)が刊行されます。アートディレクターに田中一光、編集に小池一子を迎え、躍動する写真の数々と異分野の作家による文章群で「一枚の布」の思想と成果を伝えました。
1980年代に入ると、関心は身体の動きとフォルムの探求に向かいます。その挑戦は布以外の素材、たとえばプラスチックや紙、ワイヤーなどを用いた意欲的なものでした。一連の作品は「ボディワークス」と名付けられ、その一作である「ラタンボディ」はアメリカの現代美術誌『Artforum』(82年2月号)で表紙に取り上げられました。これは衣服デザインが美術誌のカバーストーリーとなった最初の例です。
一方で同時期、人々の暮らしに目を向けた新しい服づくりも始めます。1981年に立ち上げた「Plantation」は、性別や年齢や体型を問わずに着ることのできる“日常”のための生活着です。天然素材を中心にシンプルでゆったりとした着心地、洗濯などのメンテナンス性能にも配慮した提案は、今も幅広く受け入れられています。また85年には「ISSEY MIYAKE」の軌跡上に生まれた形や素材を今一度甦らせた衣服「ISSEY MIYAKE PERMANENTE」を展開しました。
三宅の仕事を語るうえで、1986年から10年以上にわたって続いたアーヴィング・ペンとの撮影は欠かせません。北村みどり(現・三宅デザイン事務所会長)がスタイリングに参加した約250点の写真は瑞々しさと驚きに満ちあふれ、7冊の写真集にまとめられています。遠く離れても共振し合う、二人の表現者による魂の交流の記録として広く知られています。
1988年、パリの装飾美術館で展覧会「ISSEY MIYAKE A-ŪN(あ・うん)」を開催します。本展で素材へのアプローチに焦点を当て、80年代の仕事を総括することとなると、続けて従来と異なる発想によるプリーツの服づくりに取り組みます。プリーツのかかった布地から服をつくるのではなく、服のかたちに裁断・縫製した後でプリーツをかけ、形とテクスチャを一度に仕上げるアプローチです。折って、ねじって、プレスして、クラッシュさせて……機械と手仕事の両面から素材に向き合い、多彩なプリーツ服の研究が始まりました。
1991年にはこの技術を用い、ウィリアム・フォーサイスによるフランクフルト・バレエ団の初演・新作「The Loss of Small Details(失われた委曲)」の衣装を製作します。さらなる研究と改良により93年、独自の“製品プリーツ”手法によるプロダクトとしての衣服「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」を立ち上げます。洗濯や持ち運びが容易で収納も簡便といった機能性、日常のあらゆる場面で使える汎用性、着心地が良く手頃な価格帯、そして美しさ……。これらを兼ね備えた現代を生きる女性のための衣服は、今や日常に溶け込んでいます。
1998年、三宅は藤原大とともに「A-POC(A Piece Of Cloth)」の開発を始めます。これは、コンピュータ制御で糸の一本一本に指示を与え、一体成型によって多様なバリエーションの衣服を適量に応じて生産する仕組みです。エンジニアリング・デザインに基づいて、一本の糸、一枚の布が服になるプロセスは革新的な方法論と評され、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションにも所蔵されます。また同年よりパリで展覧会「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」(ニューヨーク、東京へ巡回)を開催し、88年に始まったプリーツ以降の仕事を展示して大きな反響を呼びました。
(※ 1998年12月27日付『New York Times』紙より)
「三宅のしごとは、現在、という歴史の連なりの延長線上に基礎を置いており、ファッションの直接的な文脈から意味を引き出している。『ISSEY MIYAKE Making Things』展はこの文脈をかぎりない魅惑と機知をもって提示している。」
三宅のしごとと考え方はジャンルを越えて、世界で注目を集めつづけています。1986年にはアメリカの雑誌『Time』(1月27日号)の表紙を飾り、「Changing Clothes(衣服の変革): Issey Miyake」というタイトルで、ものづくりへの姿勢が掘り下げられた記事となりました。さらに99年同誌の特集「二十世紀にもっとも大きな影響を与えたアジアの20人」(8月23—30日号)では、マハトマ・ガンジーや毛沢東、ダライ・ラマ、昭和天皇らと共に選ばれ、「Beauty Maker(美をつくる人)」として取り上げられました。(以下同号より引用)「日本のデザイナー三宅一生は、つねに未来へ視線を向け、自然をインスピーレションの源としながら、地球上すべての人に訴える不朽の衣服を創造した」。また、フランスの『Le Monde 2』誌(2005年12月10日付)は三宅デザイン事務所を訪れ、「そこはクチュールのメゾンでなく、世界でも類のない、開発と生産のための研究所である」と、スタッフたちとの取り組みをレポートしています。
2004年に設立した財団法人三宅一生デザイン文化財団(2011年に公益財団法人へ移行)は、自身の仕事のアーカイブづくりと共に人材育成、国内外の多様な作家の紹介などを通じて、新たなデザインの芽を育み、社会に繋ぐことを目的とした組織です。07年には三井不動産株式会社の協力のもと、東京ミッドタウンにデザイン施設「21_21 DESIGN SIGHT」を開設します。安藤忠雄の建築による同施設で、佐藤卓、深澤直人、川上典李子とともにディレクターに就任しました。内外のディレクターが独自の視点からテーマに沿った展覧会を制作する「21_21 DESIGN SIGHT」は、日本では希少な、デザインを発信する場として国内外から注目を集めています。
またこの頃、三宅デザイン事務所の、世代を超えて編成されたチームによって独自の企画・開発を行う「Reality Lab.(リアリティー・ラボ)」が開設、同ラボにて、次世代を見据えた環境や資源に関する研究開発が行われ、2010年にブランド「132 5. ISSEY MIYAKE」の発足、2012年に照明器具「陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE」の開発へと結実します。
2013年には、現代を生きる男性の日常着「HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE」を発表します。「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」の技術を基軸に、糸や生地の織りや編みを一から考え直した男性のためのプリーツの衣服です。これに先立ち、国立代々木競技場第二体育館で特別公演「青森大学男子新体操部」を行いました。青森大学男子新体操部のパフォーマンスに共鳴した三宅が、彼らの活動をより多くの人に届ける場を設けようと開催したもので、ここで生まれた衣装が「HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE」へと発展していったのです。
2016年には、国立新美術館で「MIYAKE ISSEY展:三宅一生の仕事」を開催、これまでの仕事を初期から俯瞰しながら、ものづくりの考えとデザインアプローチに迫り、さらなる創作の可能性を探る内容は、広い世代にあらためて驚きを与えました。
2018年、イタリアの建築デザイン誌『Domus』が未発表プロジェクト「Session One」を紹介します。これは若いスタッフとともに「野生」をキーワードに行ったものづくりで、ポリエステルと綿からなる12,000本の糸をジャカードで織り上げたテキスタイルを基軸とします。一枚の布が熱を得ると立体的なプリーツへと形を変える「Session One」は服そのものを目的とせず、人と服の関係を根源から考え直し、それが生まれる思考の過程にこそ注目したプロジェクトです。
2022年、三宅の企画による展覧会「クリストとジャンヌ゠クロード “包まれた凱旋門” 」が21_21 DESIGN SIGHTで開催されました。これは現代美術家のクリストとジャンヌ゠クロードが1961年に構想し、60年後の2021年9月にパリで実現したプロジェクト《包まれた凱旋門》の全貌を紹介するものです。クリストとジャンヌ゠クロードのふたりと長年の友情を育んできた三宅は、2009年のジャンヌ゠クロード、2020年のクリストの逝去を乗り越え、ダイナミックな映像と空間構成によって《包まれた凱旋門》の構想から実現までを観客が体験できる展覧会を東京で実現しました。
三宅の仕事と思想はジャンルを越え、世界に広がっています。国内外に根づく伝統技術と先鋭的なテクノロジーを共存させ、「一枚の布」を根底に据えたものづくりを通して普遍的かつ新しい価値観を提示してきました。三宅一生は、人間の動きと社会、そして環境を常に見つめながらデザインの可能性を拡張したのです。その三宅の精神を引き継いだスタッフによって今もなお挑戦と前進が続いています。